バルトバルトジンシ

ゼミの先生がジャック・デリダの名前を知らなかった(!)ので、失望して、ゼミを休んで他学部の面白そうな先生のゼミにもぐる。だって卒論とか不可能じゃん。
原克という、こないだも『世界一受けたい授業』(だっけ?全く信じてないから名前もよくわかんないけど)に出てた人でプチ有名な表象文化論の教授。ロラン・バルト記号学を3時間で叩き込んでもらってかなり勉強になった気がする。バルトとかフーコーとかベンヤミン、正直、わかったつもりになって流し読みしてるだけだったから。シニフィアンとかそーゆうことだったのか、と今更納得。きゃーはずかし。しかし僕の期待もむなしく、結局学生はギャル男とギャルでないことがかろうじてアイデンティティーな女性たちばっかだったので(あんな面白い授業なのに漫画読むなよー)、まあ早稲田じゃどこいってもそんなもんだよな。SFC大学の福田和也ゼミみたいなのを期待してたのに。東大とかならもうちょっとましなのかなあ。何でこの授業もぐったんですか、と聞かれて「いやあバルトとかおもしろそうですしね」(←ほんとかよ)、と答えたら、「すげえ、うちのゼミ誰もバルトとか興味ないですよ」と。だろうな。僕のアンテナに入ってるはてな学生とか一体どこに棲息しているのだろうか。
でも可愛い女の子たちに「飲み会来ましょうよー」と誘われたので、ええそれはもちろん行きますよ、といった感じで飲みにも参加。『モンパルナスの灯』見ようと思ってたけど、もはやどうでもいい。いちおう表面上は社交性あるように装ってるんで、ギャル男とかともいじったりいじられたり楽しく盛り上がれるんだけれども、結局のところ僕の社交性なんてメッキに過ぎず、偽物の社交性だから磨くとすぐ剥がれるんだよね。「結局2時間入れられてぇ」(もちろん下ネタ?ね)とか女の子に言われると作り笑顔でドン引きしちゃって会話できなくなるしなあ。といってビッチでもない。全員彼氏とラブラブでいつ結婚しようか、みたいな。やめてくれよほんとに。それでビッチなら最高だけども。あ、あと昔懐かしい名前の映画サークルの人たちが3人も3年生にいて、全員僕のことを知っていたので何だか、といったかんじ。「また来週からも来て下さいねー」と言われたけれど、行かないだろうなあ。ゼミあるし。
そんでフィッシュマンズ聴きながら帰ったら、たいそうスタバのトールラテが飲みたくなって、でもどこも無くて、そんで横浜駅前店によってみたら、23時まで営業していることが明らかになって、わーこれから帰り道に寄れるじゃないの、とはしゃぐ。注文したら、店員さんが「その時計かわいいっすねー」と話しかけられて、嬉しくなる。しばらく店員さんと談笑して、ラテ片手に帰り道。ラテのカップを見たら「THANK YOU!!」と書いてあって、るんるんとした気分になる。こーゆうのは幸せだなあ。



そういえばさっき、『モンパルナスの灯』の話が出たが、この映画はめちゃくちゃな傑作なのは言うまでもなくスクリーンで必見でBunkamuraル・シネマで6/1まで公開中とのこと。(URL→http://www.bunkamura.co.jp/shokai/cinema/now/index.html)てゆうか脚本マックス・オフュルスなのね。
その映画について、僕が常々大変すごいなあと感じている批評家、藤井仁子さん(テアトル・オブリーク主宰、早稲田大学文学学術院専任講師)が自身のブログの中で書いているが、彼の「大衆に芸術は絶対理解できないと残酷に断言する」という言葉には激しく嫌悪感を覚えた。もちろん「大衆に芸術は絶対理解できないと残酷に断言する」、という言葉はここを見ている人なら口に出さなくても誰しもがそう考えているであろうしで、否定論者がこの意見を覆すのは非常に困難であろう。さて、「大衆に芸術は絶対理解できない」、というテーゼが多くの人の賛同が得られるならば、それを表現しようとも何も問題はないだろう。もちろん僕が、『ヌーヴェル以前』で同じ言葉を発するなら何も問題はないのだ。ここを見てくれている人に「またがるぼるバカなことを」とか「あいつ成長しねえな」とか「今更何言ってるんだ」とかそういう感想を与えて終わり、で済む。しかし藤井仁子が、自身のブログの中であらためてそう表明することが僕にはむかついてしょうがいないのである。
今更僕が言うまでもなく、ほとんど全て(とゆーと言い過ぎだがまあいいや)の人々が大学に入学する時代において知識人と大衆との境界線は限りなく見えにくくなっているわけで、以前は確実に存在していた、啓蒙する側=大学にいる知識人、啓蒙される側=残りの大衆といった図式は崩壊している。(上の日記に書いたプチ有名教授のゼミで表象文化論を学ぶ学生の例を見ればわかるだろう)
つまり、現在、早稲田大学文学学術院専任講師である仁子さんが、講義で教えている学生も間違いなく大衆がある一定数を占めるのである(「サイコ2割問題」*1を鑑みれば、もしかしたら100%でもあるかもね。いや知識人と大衆の明確な線決めができなくなった今、何%とかいうこともできないのだが。)ここで間違いなくと言い切ってしまうのは、以前、現代映画論のテストの回答として「昔の映画は技術が劣っていたのでこれだけしかできなかったけれど、今は技術が進歩したのでこんなことまでできるようになった」といったもはや怒りすら通り越して笑うしかない回答が存在していることを同ブログで明らかにしているからである。そして、その講義を受けている学生(大衆)も見ている可能性の高いブログの中で、知識人の代表で無ければならないはずの教師、すなわち大衆に啓蒙するべき立場の人間が、「大衆に芸術は絶対理解できないと残酷に断言する」と表明してしまうことは、全てを捨て去ることと等しい気がしてしまうのだ。知識人の最後の砦である教師だけはそれ言っちゃダメでしょう、と。こういったことを言うから、啓蒙の有効性に懐疑的になる人ばかりになってくるわけで。と、まあむかついたから多少怒ってみる。てゆうかお恥ずかしいことに実はル・シネマで映画を見たことがなく、周りの方々の話によると、ほんとに酷い映画館らしいので、そう言いたくなる気持ちもわかるかもしれない。つうわけで明日にでもベッケル見てきます。あ、あと来週から仁子さんの講義、潜らせて頂くので覚悟しなさいよ。知識人の卵を連れて。長々と失礼しました。メンタル弱いので否定はあまり厳しくしないで下さい。
とゆうか「大衆に芸術は絶対理解できないと残酷に断言する」ってのは仁子さんが言ってるんじゃないよね、と友人から指摘があり、あ、確かにって感じです。ごめんなさい。でも太字だし…

てゆうか今思ったんだけど、あの映画サークルの3年ってことは…あの、えーと。よし、寝よう!

公爵夫人邸の午後のパーティー

公爵夫人邸の午後のパーティー

ミステリアスセッティング

ミステリアスセッティング

ケータイ小説っぽいなあと思ったらマジでケータイ小説だったのか。僕は『シンセミア』と『インディヴィジュアル・プロジェクション』とか以外阿部和重そんな好きじゃないのかもね!まだそんな読んでないけど。

*1:残念ながらid:SomeCameRunningさんの文章が消えているので、リンクを張ることはできないが、僕の記憶が確かならば、青山真治が東大だか立教で行った映画の講義で、ヒッチコックの『サイコ』を見たことのある学生を挙手させたところ2割しか手が上がらなかった、という事件(いや事件ですよ)間違っていればどなたか訂正お願いします