追悼

<映画>

a)ゾディアック(デビッド・フィンチャー
 ○渋谷シネパレス
b)ラッキー・ユー(カーティス・ハンソン
 ○シネマスクエアとうきゅう
c)不完全なふたり(諏訪敦彦
 ○新宿武蔵野館


ファーストデイで貧乏人なので映画をもちろん見たのだが、昨晩全く寝付けず、一日中眠いなあといった感じで予告編で寝て映画本編は起きて、みたいな感じの一日だった。それでも、新宿武蔵野館で流れた『サッド・ヴァケイション』の予告は一瞬たりとも目が離せるものではなく、上映が本当に待ち遠しい。ほんとは、この3本にくわえ『ボルベール』か『石の微笑』か『童貞。をプロデュース』(ガンダーラ映画祭)に行く予定だったが、あまりにも眠すぎてタリーズとらんぶるで珈琲を飲んだ後、眠気が覚めないことを確認してあえなく帰還。


a)やはり予想通りおもしろかった。巷で言われてるように「ダレてる」とか「実話ものだから云々」といったようには全く感じず、いやあよかったよね、好きだわーとケーヤに感想を電話で伝える。だからといってそれ以上でも以下でもないんだが。


b)ここ数年のドリュー・バリモアは何か魔法をかけているかのように、彼女の出演する映画は全て傑作(『2番目のキス』『50回目のファースト・キス』『ラブソングができるまで』)なのであるから、彼女こそワンダー・ガールであり、この新作を見逃すわけにはいかなかった。全然タイプではないのだけどね、ちょっと最近ではかわいいと思えてきたのも彼女がワンダー・ガールである故だろうか。
さてラスベガスを舞台にポーカーで生き抜く男、そして女の話と聞けば、誰もがノワールを思い浮かべるだろうか。だが、このフィルムはノワールとは程遠いところに存在する。ここでの登場人物の関係性は父と子や、同じテーブルに座る、そこでは上下は存在しない対等の条件(現実世界には全く存在しないはずである)の同士である。この映画においては、例えばテーブル下のやり取り(ドリュー・バリモアがズルはしない、と言うように)は絶対に存在しない。彼らは100万、1000万円の大金を失っても握手と、笑みでテーブルを去る。そして彼らはほんとうの家族の元へと帰っていく(帰る場所が誰しも存在する)。映画は常にこの関係を続けるか、否か、二つの選択肢をエリック・バナに与え続ける。常に二つ存在する選択肢は、あるときは「乗るか、降りるか」であり、「攻めるか、守るか」なのであるが、エリック・バナの選択は常に最初誤った選択をしたかのような結果を導き出す。彼は大事なところでその選択を誤り、金や、あるときは同士(親であり、恋人である)を失うかのようにみえる。そしてあらためて、その選択権を得るために躍起になる。ただその繰り返しである。これこそが映画であるのだ。しかし、彼がゲームを降りたとき、つまりそのポーカーフェイスを崩したとき、あらたな物語がはじまるのである。そこで展開される親と子、そして恋人との物語はただ美しい。


c)それまでの微動だにせず、二人の姿をある一点から捉え続けたキャメラが、初めてぶれた瞬間、演出だ!これぞ演出だ、と我々は興奮し、ただあとは「切り返し」の、そして「クロースアップ」の美しさに震えるだけである。



追記:いまエドワード・ヤンの死を知る。最近亡くなった有名監督、ダニエル・シュミットダニエル・ユイレなどは良くも悪くも僕たちの世代の監督ではなかったので、正直リアリティもあまりなかった。彼らの作品を見る機会も大抵、アテネ・フランセとかだったので。ただエドワード・ヤンはリアルタイム、というか、若いうちにDVDで見てきた監督だったので、あまりにもショックでちょっと言葉が出ない。『恋愛時代』『カップルズ』、大好きな映画だった。