蔡明亮にノックアウト

<映画>

a)西瓜(ツァイ・ミンリャン)★★★★
b)楽日(ツァイ・ミンリャン)★★★★

お久しぶりです。風邪がなかなか酷くて、数日間療養してました。しかし10月は映画が凄い。まだ半分しか過ぎていないのに、既に『マッチポイント』『ミレニアム・マンボ』『西瓜』『楽日』と、マイ劇場映画ライフでも重要な映画がいっぱい見れているという。しかも『百年恋歌』『サラバンド』に例の「ROUND2」でしょ。最高。そんなわけで過去の星取り多少調整しました。『キングス&クイーン』に五つ星をつけないのは自分の気持ちに嘘を付いているような気がしたから。(新作ではいまのところ唯一の五つ星ですね)ただし断っておくが、二つ星以上は僕が擁護する作品であるので、そこんとこよろしく。三つ星がフツウではないです。三つ星は傑作って感じです。
某方から、「そもそも何で今時、星取なんてやってんだ。批評とか文書く練習したいならそれだけでいいじゃないか」と言われたので理由を説明しときます。ぼくは決して批評や文を書く練習がしたいわけではない(少なくともメインの理由ではない)、ということ。つまり、ぼくの頭の中にはあくまで「配給」とか「宣伝」といった意識があって、映画を映画館で見てもらいたいからこそ星取をやっているということです。もし、映画を見に行こうか迷ってる人が、偶然星取を見て高評価だったらじゃあ行こうかなと思ってくれれば幸いという意識です。稚拙なブログで何言ってんだって感じでしょうが、そんな人が少しでもいればなあといった思いでやってるので、いまでもあえて星取を続けているわけです。だからこの星取は、旧作に比べると、新作には相当甘い評価となっているでしょう。だって厳しくつけて映画の客減らすなんてバカみたいじゃん!!本当の星取はみんなが自分の目で確かめてね…なんて、うまくまとめた感じで笑


a)多くの方が良い評やレビューを書いているので、あまり詳しく書きませんが、素晴らしい映画なので未見の方は是非ご覧あれ。ただしカップルでは行ったらだめよ。デートもだめ。数組のカップルが来てたが悲惨なことになること間違いなしなので。それともそうゆうプレイなのか?
もちろん皆様の言う通り、水分というものが重要な要素(水分が何か別のものを象徴していると捉えたとしても)なのだが、単にそれだけでなく「吸収」と「排出」というのも考えるべきか。女は吸収はするが、排出はわずか一回、最後のみ。水分が不足していた女の最後の排出、何故涙を流したか。対して男の場合は何度も排出を行う。それは酷く濁った液であるが、同時に西瓜、すなわち子供をもたらすものなのである。そして西瓜を抱えた女もきっと望んでいたはずであろうが。
それにしてもチラシ見て驚いたんだけど、この映画、台湾の2005年の興行成績ナンバーワンなんすね!信じられない!だってAVじゃん!台湾は自国の映画見ないってのは有名だけど、やっぱりあの楽しい楽しいミュージカルシーンのおかげですか。だって興行成績ナンバーワンって言ったら『セカチュー』じゃん。……はっ!!まさか、台湾でも…純愛ブーム、、ですか?


b)ひとつまず確認したいのですが、ぼくは10/14の夜の回のイメージフォーラムで見たのだけど、映画の音声が順番に右から流れる、左から流れるといった具合にどんどん変化していったのは、あれは映画の元々の仕様なのか、イメージフォーラムのミスなのかどっちすかね?説明しづらいのだけど、常に片側が欠けている感覚というか。ユーロで見た人いれば、教えて頂きたいです。もしミスだったとしても、それはそれでいい映画的効果を生んでいたので告発する気もないのですが、初めての経験だったもので…。帰りにスタッフさん確認すれば良かったものの、湘南新宿ラインの終電が迫っていたもので、すぐに劇場を出てしまったという…そこらへんが映画的センスがない証拠ですよね笑
傑作と駄作の境界線とは何だろうか。ストーリーもない、台詞もない、何にもない、ともすれば駄作と言われるだろうこの映画が、どうしてこれほどまでに傑作であり、映画を見ることの喜びを教えてくれるのか、僕には全くわかりそうにない。ただ、実際に『血闘竜門の宿』に出ていた二人の俳優が言葉を交わした瞬間、ぼくは涙がこぼれたし、終わった後の渋谷駅まで走ったあの瞬間「映画だ!本物の映画を見てしまった!」と心の中で叫んでいたのは事実なのである。
『楽日』の中で、世界は完全にはなり得ない。常に不安定なバランス、いやはっきりと言えば、世界の半分、片側が存在していない。例えば女性の喪失=ゲイばかりいる映画館、日本人留学生の彼は求められても受け入れられないし、求めても受け入れられない。また片足が不自由な映画館で働く女性。彼女が片側の足を引きずり、探し回った映写技師とはお互い思い合っているにもかかわらずすれ違い続ける。彼らは映画館にいるにもかかわらず、スクリーンと同じ空間には存在していない。観客はまともに映画を見ようとはせず、スクリーンはただ、見られもしない映像を垂れ流すのみだ。そして俳優の彼らは「誰も映画を見なくなってしまった」と言う。
彼らの言葉で、ツァイ・ミンリャンが映画というものをいかに意識して『楽日』を撮ったのかを悟る。とすると、もしかしてこの左右がくるくる入れ替わる音声もツァイ・ミンリャンが狙ったことであるかのように思えてくるのである。ツァイ・ミンリャンは意図的に、フィルムの片側にしか録音せずに、この映画の世界の半分が欠けていることを表したかったのか。それとも、あからさまに違和感を与えることによって、ぼくら観客が現実ではなく、いま『楽日』という「映画」を見ているんだということを意識させ続けようとしたのかもしれない。結局その映画を見た環境も含め映画である。ある人が見たAという映画でおばちゃんが映画館で喋り続けていたとしたら、おしゃべりなおばちゃんが存在したことも含め、ある人にとってはAという映画なのであろう。もしそれがミスだったとしても、ぼくにとっての『楽日』とはそういった映画なのである。
世界の半分が存在しない映画。それはまさしくぼくらが普段体験する映画ではないか。ぼくらが映画館にいるとき、映画を見るだけで決してその内容に手は出せない。映画のための映画。そう考えてみると、例の宣伝文句が頭に浮かぶ。『楽日』の原題は『不散』、『迷子』の原題は『不見』、『不見不散』=「またお会いしましょう」ってか。くそ、やられた。『楽日』だけじゃダメ、世界のもう半分は『迷子』にある。確信犯じゃねえか、ツァイ・ミンリャン



そんなわけで、『迷子』も見なきゃいけなくなった上に、『西瓜』も『ふたつの時、ふたりの時間』の続編なんですね。しかも『迷子』もイメージフォーラムでレイトやって、『ふたつの時、ふたりの時間』はアテネの映画の授業 冬期講習編でやるという。本当に偶然なのか?
…かつてこれほどまで商売上手な監督がいただろうか、あなどれないなツァイ・ミンリャン。(もちろん喜んで見させて頂きます)