YUKIの話

ぼくの好きな女の子と言えば、酒井景都とスーチーとEMIちゃんYUKIちゃんあたりが有名であろうが、その中でもやはり大好きなYUKIちゃんがニューシングルを出していた。
僕がそもそも、YUKちゃんが好きなの理由にはねじ曲がった感情がある。はてな界隈には賛同してくれる方も多いと思うが、いつの日からか僕は、一般的な方々と音楽の趣味嗜好が合わなくなってきてしまった。カラオケにいっても歌う曲がない!いや歌う曲はいくらでもあるんだが、空気読んで歌えない!(僕の周りにはくるりも聞いたことない人ばかりだからね!)そんな中、YUKIちゃんの存在は特別だった。いわゆる渋谷とかにいるふつーの女の子と音楽の共通点がYUKIちゃんだったのである。つまり人並み以上には語れるYUKIちゃんをコミュニケーションのツールとしてきたのである。単純に彼女の嘘くさいエレポップは好きだし、てゆーかかわいすぎて見てるだけで幸せになれるし。
さて、そのYUKIちゃんのニューシングル『ビスケット』である。

「私があなたを好きな理由 100こ以上正座して もっと言えるから」という歌詞に象徴されるような、超がつくほどベタベタなラブソングである。この曲を聴いて僕が気になったのはYUKIの中での、女性的なものの変化である。
JUDY AND MARYのときの彼女は、そのロリータ性を全面に押し出していたであろうが、ソロデビューしてからの彼女は一気に母性を獲得していった。特に第一子懐妊中に作られたアルバム『Commune』からの変わり方は明白である。「私の中の小さな太陽」と歌った『砂漠に咲いた花』に代表される曲作りは、もちろん生まれてくるだろう子供への愛に満ちあふれたものとなった。母性とは、1+1が無限ともなりうる、「増殖」というキーワードで定義できると僕は考えているが、『Commune』のジャケットイメージ、センチメンタルジャーニーのPV(YUKIの体から新たなYUKIがどんどん生まれてくる)のテーマはまさに「増殖」である。(↓これね)

間違いなく全ての女性にとって(、もちろん男性にとってもであろうが)人生最大の出来事であろう、「子供が生まれる」という事件は、もちろんアイドルであったYUKIにも人生最大の事件であったろう。しかし、彼女は、はじめて生まれた子供を、わずか1年数ヶ月で失うこととなる。乳幼児突然死症候群であった。
YUKIはわずか2年間の間に最も大切なものの「誕生と喪失」を体験することになる。一部では活動停止するだろうと、囁かれもした。だが、彼女は歌い続けた。
ある点で必ずミーハーとなりうるファンたちは、YUKIにとって味方とはなりえなかった。彼ら彼女らは、好意もしくは悪意を持って、YUKIの全ての曲を「子供が死んだこと」と結びつけた。例えば子供がまだ亡くなる前に出されたにも関わらず、『ハローグッバイ』という曲は、ほとんどのファンの中で、「あれは恋人との別れを歌ったのではなく、亡くした子供に向けて歌ったのだ」とすら言われる始末であった。「グッバイ」や「バイバイ」「亡くした」などのキーワードを連続して曲に使用するようになった彼女は、常にファンの疑心の目の対象となった。それからは、自分は母親としてふさわしくないのではないか、という内面の葛藤と、ファンとの戦いだった。『メランコリニスタ』ではまるで似合わない性的な意味での女性としてのYUKIの姿が噂になった(PVのフェラチオしてるってゆーあれね)
そしてまた昨年、YUKIファンをあるニュースが騒がせた。YUKIの第二子懐妊である。その頃彼女が出したシングル『ふがいないや』では彼女の母性が結実した。以下のPVを見てくれればわかるように、PVの後半から登場するYUKIの姿は、まさに妊婦、母親としての姿である。

彼女の子供は無事産まれた。ホームページには、「今度こそ」という強い決意に溢れたYUKIのコメントが載せられた。彼女は長い戦いから解放された。それまでの葛藤に打ち勝った。そこであらためて、今度の新曲、『ビスケット』をみてみると、それまでの母性はどこにいったの、というような、まるでジュディマリ時代のようなロリータ性を取り戻していることが分かるだろう。(僕の友人は、このPVを見て、モー娘の辻ちゃんを見ているようだ、と表現していた。確かに、道着とか中学生アイドルのコスプレレベルだ。いや辻ちゃんだって母親ですけど笑)それを喜ぶ人も、嘆く人もいるだろう。しかし、僕らにはそんな彼女に対して、何かを言うことはできない。ただ、全てから解放された彼女の姿を僕らは見守ること以外は許されていないのである。